霧散する青

みんないったいどこに行ったの?ってしくしくした気持ちのまま夏が終わった。毎日なんとなく忙しくしてなんとなく電話もしたり手紙を書いたりそんなことを繰り返して、まるで言葉から発露されている細くてぴかぴかした糸みたいな引力だけをよすがにして、日々に繋ぎ止められていたみたい。短いメッセージを送りあうだけじゃ、何にもうまくいかなくて、崩れるみたいにお酒を飲んでみたり煙草を吸ったりして。急に誤魔化しきれなくなっちゃったのは全部金木犀の匂いのせいで、どうしてアイツの匂いってのはあんなにも暴力的なのか。橙色が世界で一等嫌いです。私の周りには青っぽいものだけあればいいとすら思っている、革命的青色主義者なんです。そういえばどうしてみんな革命的ってつけたがるのかな?なんだか画一的でカワイイよね。人畜無害な可愛いものは嫌い。希望はインチキ。ぜんぶ張りぼて。希望は偽薬。もっときちんと苦しもうよ。まともに生き切る努力をしようぜ。

当たり前みたいに交し合っていた言葉も、当たり前だったデートもどきも、いつまでもおんなじじゃいられなくて、会うたびに少しずつずれて「なんとなく違う」が積み重なって。別れたり出逢ったりを繰り返しているんだってわかるけど。わかってるんだけど。セックスだけでいいって始まる関係も、セックスなんてなくたっていいって始まる関係も、みんな平等に霧散するときは霧散してしまうの最高です。その事実と絶望で私は救われます。

もう誰だっていい。だって好きな人がほめてくれた青色の髪の毛も、もうダメになっちゃってるんだから。

 

 

 

彼誰時の骨

苛立ちが肺に切々と募る。あの人間がわからない。これっぽっちも覗けない。悲しみがそこここに積もる。本のページにも、ビイルの飲み口にも。ノルウェイの森で緑が言うじゃない、私があなたにしてあげれることが少しもないみたいで悲しいって。私がワタナベ君、と呼びかけてもあなたは自分の殻にぴゅっと閉じこもってしまう。みたいなニュアンスのこと、緑が言うよね。この煮ても焼いても食えない絶望はたぶんそれに似ているんだよ。それにしたって部屋の隅にある暗闇ってものはどうしてあんなに優しいのかなあ。部屋の中はいつまでも青くて安全だね。ずうっといると骨が軋んでいく音が聞こえる。それがだんだん内蔵に溜まって昏い快感になっていく。

たとえばあの中毒性の透明を一気に飲み干したとして、そのおかげで体に変化があったとして、そのままいつもみたいに人間と寝たりできたんだろうか。せっかく出会ったんだから二人して足りないところ満たしあって終わろうよってできたんだろうか。セックスはコミュニケーションじゃない。コミュニケーションなんていうものじゃない。もっと残酷で扱いにくくて逃れ難い。醒めたりしたらはいおしまいってな感じで、そのあとは取り返しのつかない、リカバリー不可能な関係の破綻とすれ違いの連続で摩耗するしかないんだ。どうにもならなさがコミュニケーションとは段違いな気がしたんですが、それは私が痴れた女だからやもしれません。

人間を好きになってしまうのは、落ちるのと、落とされるのと、いつの間にか落ちているのと、もういいやって落ちていくのと4ツでしか説明できないと思ひます。あの日車の中でなにか確実に奈落に落とされたような感覚がしたのでした。手を取られた時も、眠いって言って頭が揺れてそれを覗かれている時にも。私はあの人間に落とされた。もはやラリるためだけに自家発電する必要すらなくて、それはあまりにも久しぶりの安堵でした。いや、安堵とも違う、被征服によって生まれた消極的な自堕落に快感を覚えてしまったのかもしれません。たとえそれが刹那的なものであったとしても。とてつもない期待で頭のヒューズが飛びそうでした。あの薄皮一枚隔てた骨にした、思慕のキスで精一杯でした。

あの人間は私にとって宗教だ。信仰の対象だあるときには私を救ってくれず、またあるときにはめためたに甘やかす。殺しあえればどんなに楽か。ねえそういえばどんな話だったっけ?明け方まで話していたことあんまり覚えてないなあ。

私にとっての「あの人」はあなただったりあの人間だったりするけど、あなたの文章に出てくる「あの人」が私だったことは一度もないね。そんなの読んでたら分かる。けどそんな関係の不具もこれからは気にしないでいられると思うんだ。圧倒的な電流が未知の六畳一間で流れて、私も真人間になったんじゃないかなと。九州で人間になってこれた気がするわけ。

これから嘘をつきますよという嘘を笑って吐いたあの人の弱さがただひたすらに暖かくて悲しいと、涙とタバコで灰色の雲を精製しながら考えています。鈴虫が鳴いたりするの許せません。秋っぽいモノはもっとスイッチを変えるみたいに一気に来てくれないとめそめそした気持ちにさせられてしまうので辛いです。細切れに毎日死ぬことでしか日々をやり過ごせません。努めて寝ますおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

踊らんかな

2月に知った、3月に近づき、4月に求めあった錯覚。5月にはもう薄れ合い、騙し合うってわけ。6月は知らない、7月は希望。
トレンドじゃないことをしている。50年近く前の同志に届きそうで届かない距離。
退行し、進行している。退行することが=進行である。他に支配されていたものにとって、支配から逃れて伝統に立ち返るのは退行ではなく進行である。

背中に当たる硬い床の体温が、私と同化するのをぼんやりと感じて、寝返りも打てない窮屈さは与えられる側から与える側になった。立場が変化してなにもかも分かったような気がする。弱い人が勝手に傷つく。

まぁいっかなんてらしくないですよと言われてから気付く。不細工もデブもどうでもよくてただ思考だけをおもしろがってくれるのは何人かだけで、好きにやれと焚き付けられなかったらきっと私は間違えた。
右も左もわからないまま運動に吸い寄せられていくのを押したり引いたり転ばしたり傷付けたりする人がいなかったら多分ここにいる意味なんて半分も無くなってしまうんだろう。
なにもかも恋愛感情で片付けられると浅はかだなぁと思う。関係はそんなものじゃなくて共闘している同志みたいなものなんだって気がする。面白さだけを加速させて二人してアクセルだけを踏み合って、どちらが死んでも構わない。死んだら笑ってあげるという覚悟。泣くぐらいなら道化のまま偲んであげる。花よりも血飛沫を、祈りよりも懺悔を、ふたりで暴力革命する。君と君。君と私。それ以外はそれ以外。拡張して濃度を高めあう。切実で悲しいことのなかで愉しげに踊ること。そこに至上の価値がある。グロテスクな歌詞のなかで面白おかしくなることに意味があるんだ。踊らん哉踊らん哉。

愛は刺青

先週久しぶりに実家から連絡があって、なかなかに堪えた。あと一歩で泣くところだった。梅雨になるとこっちもなんとなく地元に似てくる。春も夏も秋も冬も、こっちのそれはわたしの知ってるそれじゃなくて、「地元にいない」ことをありありと感じられて安心したけど、梅雨だけは地元と一緒。充満する雨とはっぱの匂いにあてられて魂だけがふらふら地元に戻っている気がする。

お母さんの青アザはそろそろ消えて、歯形だけが消えずに残っているんだろう。弟の部活が終わる。中学が終わっていくんだね。お父さんはCABINを吸って灰をきれいにかたづけない。おじいちゃんとおばあちゃんはいつも言い争いをして、それが二人の愛なの。お兄ちゃんはいつまでも甘ったれで怖がりの弱いひと。

お母さんの子供がもう高校生になったらしくて、連絡があったんだって。おかあさんは私たちと同じくらい子供が好きで大切でその子達のためだったらいろいろなことができちゃう。まるばつカードを延々と作って、講義に行って、私に本を読む代わりにその子のために泣くんだ。肉を抉られてまるで刺青みたいに消えない歯形がついても、引っ掛かれても、他の人から白い目で見られても嫌われても。私はお母さんと話したいがために手話を覚えたし漫画を読んだけど結局うまくはいかなかったな。人に優しくすることはドラックだ。優しさは猛毒だ。抜け出せないままずっと人に優しくしたらお互いの心が腐敗する。

ネタやからかいでいちいち傷ついている場合じゃない。一人でやっていけるように成らなくちゃいけない。デブとかブスとかしみじみ言われる可愛くないねぇとか。私だからみんな言う適当に気を使った暴言にも面白く返せなきゃいつまでたっても擦り傷が消えないんだ。

自分のフィールドに好きなひとを引っ張って消費してしまったような気がして、昨日は自分の女々しさといやしさに辟易した。本当にずるい!卑しい!私は自分がされて一番嫌なことをすきなひとにしたのでは?!うわあ結構最低。と電車のなかで一人アタマヲ抱えたわけなんです。ただ時間は戻らないから仕方ないかッ!ってむりくり思考を止めたりしました。515円の傘はもう515円以上の価値がある。ようは時間の経過が大切なんですね。なんとなくいつも人に会うと話せなくなっちゃうのも時間が現在から過去に恐ろしいスピードで流れ去っているからなんだ。私はそれをびくびくしながら見つめているしかなくて、そのせいで過ぎる時間に上手く溶け込めないような気がする。だから無言という椅子にわたしだけ座って楽してるんじゃないかと。人間関係で無言と不機嫌はイスが一つしかないイス取りゲームだ。上手くやるためにはどちらかが座ったらどちらかは座れないっていう状況を甘んじて受け入れなければならないんだ。もっと人に優しくありたい。

ザ・トライブがもう一度見たいと切に思った

めくらぶどうはわたくしであった

心身の主に心のほうの不調で学校を休んでしまうタイプの女の子っているよね、目の下に隈があって細くて長い黒髪の女の子。ああいう子のこと多分ずうっと昔から同情する素振りで見下している。体調不良なんて誰にだってあるのにたかだかそれが体に出たくらいで人にチヤホヤされたり、やりたくないことをやらないで済んでいるのはずるいって思う私の中の小学4年生は、ひとつ上の階段にぴょいっと飛び乗って19歳の私を見下して笑う。あっはは、あんたもダサくなったねぇと言う声は階段の奥行きのせいでガンガン脳ミソで反響する。

5日くらい前から食べては嘔吐の繰り返しでなにやら私はいつも酸っぱい匂いのする女。体言止めはいけすかないからやめたまえよ。けど心身の不調でなにかを放り出すわけにいかないし、そんなことしたらたちまち私は私である価値がなくなってしまうし、やることやらなかったら駄目な子認定されちゃうよねぇ。ということでなんとなくばたばたと動いて気をまぎらわせテいたわけ。
目の下に隈のあるタイプの女の子のことを、多分わたしはあんまり見たくない。けど頑張って視界に入れないようにすることがイコールものすごくエネルギーをつかって対象のことを意識していないといけないのと一緒で、見たくないからこそずっと見ていないといけないんだ。多分。気が滅入るなあ。

どうしてこんなこと書いてるのか分からない。物を書きたくなるのについて回る動機の数は多分いつだって複数だ。救われたいのにそれを他人に任せたらたちまち自意識に足を絡め取られて何かが折れる気がする。自分が嫌悪していた対象に成り下がるなんてそれこそ目も当てられないのではないか。

憧れで好きなわけじゃないけどあんまりにも格好良くて面白くて素敵で怖くて怖くて、片道2時間弱かけてだって彼の姿で満たされたいのでした。めくらぶどうはワタクシで虹はあの人だと分かった時にはもう新宿。酔った頬に風がちめたい!

午前3時

毎日毎日惰性でものを食べている気がする。お腹が空いていなくても食べてるし、それはお腹が鳴ったら恥ずかしいとかそんな下らない理由からなんだけど、きちんとお腹が空くというのは存外幸せなことなのかも知れない。飢えってあんなにつらいのに無ければ無いで死にたくなる。何が食べたい?とか、何が好き?って聞かれるのがものすごく嫌いで、そんなこと聞かないでよ何が美味しいかなんてその時々だし分かんないよっていつもイライラするんだけど、久しぶりに出掛け先で食べたハヤシライスがもうめちゃくちゃに美味しくて、事前に考えてたあれやこれやがどうでもよくなった。結局気持ち悪くはなるけど対価って感じする。


青い薔薇が枯れてしまって泣いた。触った瞬間にガクから花びらが落ちてしまって一瞬凍りついた。大事にしていてもお花は枯れちゃう。けどそっちのほうが気楽で良いのかもしれない。捨てたり拾ったりするのって馬鹿みたいにエネルギーがいるから疲れちゃう。自然と何もかも枯れるみたいにだめになっていってくれる方が嬉しいなぁ。自分から捨てたくないし、捨てざるを得ないような状況になって、うんうん仕方ない。これを捨てるのは仕方ない、だって腐ってしまうし場所も取るし。って思いながら手放したい。なにかを自主的に選んだり捨てたりするのって、ある面では非常に快感なんだけどある面ではめんどくさくて誰かに押し付けたくなっちゃう。結局悪者になりたくないだけ。


人と同じように絵を描いたりみんなが好きな本を読んだりすることに価値なんてないってずっと思っていて、多分それは未来永劫変わらない価値観なんだけど、人と違うことに優越感を感じたりはしてないってことをあまり分かってもらえない。流行りとかみんなが読んでるってるだけで自分がそれを読むことに意味ないよねって明言することで相対的に自分の特異性をひけらかしたい訳じゃないんだけど。そんなことより自分にしか出来ないようなこと探せば?悪いけど先に行くよって気分。


午前3時半は空気がきりきりしていてこのままどこかに歩いて行ってしまいたくなる。お腹すいたしビールが飲みたいなぁ。夜の空気はだめになる。