踊らんかな

2月に知った、3月に近づき、4月に求めあった錯覚。5月にはもう薄れ合い、騙し合うってわけ。6月は知らない、7月は希望。
トレンドじゃないことをしている。50年近く前の同志に届きそうで届かない距離。
退行し、進行している。退行することが=進行である。他に支配されていたものにとって、支配から逃れて伝統に立ち返るのは退行ではなく進行である。

背中に当たる硬い床の体温が、私と同化するのをぼんやりと感じて、寝返りも打てない窮屈さは与えられる側から与える側になった。立場が変化してなにもかも分かったような気がする。弱い人が勝手に傷つく。

まぁいっかなんてらしくないですよと言われてから気付く。不細工もデブもどうでもよくてただ思考だけをおもしろがってくれるのは何人かだけで、好きにやれと焚き付けられなかったらきっと私は間違えた。
右も左もわからないまま運動に吸い寄せられていくのを押したり引いたり転ばしたり傷付けたりする人がいなかったら多分ここにいる意味なんて半分も無くなってしまうんだろう。
なにもかも恋愛感情で片付けられると浅はかだなぁと思う。関係はそんなものじゃなくて共闘している同志みたいなものなんだって気がする。面白さだけを加速させて二人してアクセルだけを踏み合って、どちらが死んでも構わない。死んだら笑ってあげるという覚悟。泣くぐらいなら道化のまま偲んであげる。花よりも血飛沫を、祈りよりも懺悔を、ふたりで暴力革命する。君と君。君と私。それ以外はそれ以外。拡張して濃度を高めあう。切実で悲しいことのなかで愉しげに踊ること。そこに至上の価値がある。グロテスクな歌詞のなかで面白おかしくなることに意味があるんだ。踊らん哉踊らん哉。