紫陽花のある木曜日

 

最近、芸術に対するうしろめたさがピークに達しつつあります。

芸術に、モルヒネ以上の何かを求める私ですが、みなさまは違うんだなってことをひしひしと感じる日々で参ります。アートで地域活性化とか、いつも言われてしまう。

 

私たちはいつだってラベル付けされる側の人間で、でもそれは常に評価とは違う。区分されるのみにとどまって、良し悪しを語られる段階にはたどり着けない。嗚呼これが!これこそが田舎にいるってことだよ!田舎にいるっていることは、揺るがない価値基準を持ってしまっているということだ!身体がどの場所にいて、どんな経験や刺激を得ているかなんてことはさしたる問題ではない。渋谷を歩くことと、田んぼのあぜ道を歩くことにたいして違いはない。問題は受信するチャンネル。開かれた耳を持つこと。それは変化、あるいは断念。君を振り付けなおすこと。自らが踊ること。その自分を許すこと。

 

 

私に必要なのは、私以外の誰かといる時の方が私といるより楽しそうにする君を見ても、傷つかないこと。他人と踊る君を見ても、君を許せる私でいること。

そんなのはどだい無理な話なのかもしれないですけど。

 

上手くいかない原因を自分にも他人にも半分ずつ求めたいですが、まぁやっぱりそんなに器用ではなくて、どちらか一方に偏りがちで、人に嫌われます。

今週来週と好きなお芝居を見るのですが、様子がうかがいしれるたびに背骨とみぞおちが粟立ちます。私が分かり得ない君、その君自身すらわかり得ていないものが、文章と振る舞いに表出するのかと思うと、君が好きですと言いたくなります。

 

僕の遺伝子が君に残ったはずだと、もらったその言葉だけを大事に大事にして、それ以外で君が私をぞんざいに扱っても耐えられるように。たとえその言葉がお酒のせいだったとしても、世界で一等嬉しかったのだと伝えられなかったとしても。