生きようと試みなければならない

それ以上何も考えられないくらい寂しくて頭に来たり、好ましい人を目の前にしていると鋭い刃物で身をえぐられるような切実な痛みを感じたりすることが日夜あるんですけど、そういう時自分が馬鹿に健全な器官だなと感じます。今では何かが確実に失われていてまったく元の形に戻ることはないんです。私以外に面白がりたい人があなたの前に現れたなんていうことは容認しがたいよ。ムリすぎる。

 

如何とも言い難いですが、なんというか順番待ちをしている気分です。あ、あいたからここ入ってしまえーとか、空いてきたっぽいからちょっと並ばせてもーらおってな風に場当たり的に他人を選んでいる気がして卑しい。並んでいるつもりが違うレジにいるみたいな。隣のレジが早く流れるから、「あ、ちょっとこっちに移動してみようかしらん」なんて、よせばいいのに動いちゃってハブかれる。いつもグラグラで、待ても出来ない人間だ。

 

 

 

久々に”アデル、ブルーは熱い色”を観ました。死ぬほどつらくなっちゃった。いつもアデルがホームパーティーで給仕するシーンで抗いようなく泣きそうになっちゃう。アデルはお客に食べ物を取り分けてあげるだけで、ずっと辛そうで、好きな人の過去の足跡とか、好きな人から抜け落ちない”誰か”の痕跡を感じながら、優しさを他人に与えるだけで観ていて痛々しい。要らない人の愛ばかりが蓄積されて、好きでもない人とセックスして、一度した失敗はリカバリーできない。本当に最高の映画だと思います。大好き。身勝手さが自己完結していなくていいです。他人と好き合うというのは、身勝手さを他人にこれでもかと曝け出さざるを得ない行為だよ。みんなじたばたしていてキツイ。好きな人には綺麗なところだけなんて見せられないじゃん。愛していると思うとき、そこには憎悪があると思います。他人の呆れたところも許すことが愛なんだと思いたい。

 

好きな人の自己犠牲を物わかりよく受け入れることなんて、そんなのファッションじゃないかと感じてしまう。風が立つ、生きようと試みなければならない。綺麗なところだけ見てほしいなんて、そんなの理想的すぎて受け止めがたい。

 

死ぬ時も見てて。わたしを観測していて。憎んで。正直に話して。傷つけて、傷ついてよ。人生がフリー素材になったから、いろんな人にすり減らされちゃうけど、でもあなたになら消費されていい。ダメなところも汚いところも嫌いで好きでいて。生きようと試みるというのは、汚く、また高潔でいることであってほしい。二人で白黒つけられないからごちゃごちゃでいようよ。汚いところも嫌いで好きだよ。死んじゃうならアクセル踏むから、二人で加速しよう。

みんなのこときらいですきだよ