宛名のない期待

外の匂いが冴えざえとしてきて、肺に落ちると銀河色に輝いて底に沈みます。今は春か夏か、それとも別の何かに挟まれた名前のない時間の流れか。毛細血管の隅々まで群青色の組成式がゆきわたるがために、明日のさよならは偽薬と同じ。

流星を見たくて首を痛めても、それは嘘の感覚です。燃え尽きていく星に自我があると仮定するならば、それはいかほどの熱さと絶望か。明日の温度は気狂いピアノには快楽で、明後日が来るという証拠はどこにも見当たらない。雨が降るから傘が必要なのではなく、我々はただの口実として傘を持つことがあるということを自覚すべきです。

 

旅に出るのに必要なのは手紙を書くためのペンと便箋。宛名がないものが積み重なっても、涙で自分を慰めないことを君に誓います。

匂いすら同封できる時代がいつか来るまで、厭らしく生活してしまうけれども、それがどうしたことだよ。炊きたてのごはんや、午前2時の屋上や、天体観測の期待を含んだ夜空の匂いを、靴箱に入れた手紙道具の甘い匂いと鈴蘭をいつか自分だけではなく君に送ることが出来るとしたら、それまでの空白は全て埋まるはずなんだよ。同じ匂いを嗅いで、いい匂いだねって言い合えないことが寂寥の元だ。

 

夜、外からいい匂いがする。それはだいたい深い緑色で、東京のどこだか分からない細い路地を歩いていたときによく似ている。繁華街より住宅街が好きです。誰かの暮らしの中にある余裕が花になってコンクリートの塀の向こうから首をもたげます。思い出の中に差し込まれる匂いが、いつも悲しみと昏い気持ちと共にある。

 

夜、外からいい匂いがする。どこからともなく漂う匂いに目を凝らしきょろきょろと辺りを見回して、それでも見つからない。どんどん匂いは記憶から遠ざかり、悲しみばかりが大きな染みとして残る。

そういうとき、きまって思い出すのは君のことで、君はどこからともなく漂ってくる芳しい匂いと同じもの。君の歩幅は変わらないまま、君の姿は捉えきれぬまま。記憶ばかりが肥大し、どんどん遠ざかる。