冷え性夜明け前

 

2分で良いから話さなければならないと思ったのは後にも先にもあの時だけだった。腹の中からじくじくと焼かれるような激しい嫉妬だった。それはあまりにも記念碑的で、いつまでもいつまでもその滓のようなものが自分の内面に漂っているような気がする。

あなたはずっと優しくなかった。優しくない方が良かった。優しくされたり、可愛かったりするとつい夢中になる。何かに夢中になっている時の自分は醜い。目に余る醜さだ。

19時とか、20時とか、そんな時間に駅に着くといつも改札前は混んでいた。夏も冬も、言いようのない妙なにおいが漂っていて、それが妙に悲しい気分にさせた。あなたのいる街に着いて、あなたのことを考えた時に、心臓の在り処を知った。

 

なんか、まとまって文章を書けないというか、全て箇条書きのような出力の仕方になってしまう気がしてすごくつらい。こんなのは読むに堪えないと思って、かなしくなる。

 

最近自分の知らない言葉をさも当然のように使われることにたいして、ほとんど性的とすら言っていいほどの興奮を覚えていることを自覚した。「可及的速やかに」とか、「◎◎なのに△△、此れ如何に」とか。文語的な表現を口語で使われる、それも良いタイミングで使われると、本当にそれだけで相手を好もしいと思ってしまう。

 

差別表現が嫌いだけど、結局のところ自分の自覚できる範囲でしか優しさは発揮できないし、全ての人の立場でものを考えるのは不可能なんだから、これはどうしようもない問題なのかもしれないと思った。でも自分の好きな人が、自分の許せない表現で笑っているのを間近で見ているのはつらい。なぜそんなことで笑うんだ…と、無力感に苛まれる。誰かがなにか失敗した時に特定の病名を口にして笑うっていうのはどういう了見なんだ。私は君の身体的特徴や性的志向や、出身や思想をあげつらって笑ったことは一度もないはずだけど、君は私以外の人の身体的特徴や病や痛ましいかもしれない出来事を何かのたとえで使う。そんなのは傲慢で無神経すぎないか。自分の傷には敏感で、他人の傷には鈍感なんだね。まぁそんなのは誰しもそうだけど、でも想像することが大事なんじゃないのか。賢くない奴がブラックジョークを言おうとすることにたいして、死ぬほど嫌悪感がある。

 

毎日毎日、明日はもっと善く優しい人間であろうと思う。人を思いやって暮らしたいし、朝起きたらお湯を沸かしてポットにきちんと入れたい。ちゃんと前髪を留めて顔を洗うし、家の中は静かに歩きたい。靴のかかとは踏まないし、洗い物は溜めないで生ごみはすぐに捨てる。君の分のコーヒーも一緒に淹れるし、目玉焼きは二つ作るよ。些細な変化も見逃さないで、素敵だと思ったところはきちんと褒めるね。これは私が他人にしてほしいことでもある。自分で自分に優しくすることは不可能でどうやったって他人を思いやることでしか、自分に返ってくることはない。自分のしてほしいことしか他人にできないんだ。優しく、機嫌よく暮らしたい。

共棲みしていて、不機嫌というのは一つしかない椅子なのだ。どちらかが座ったらどちらかは立ち続けるしかない。そんなのはやめて、お互いが椅子の周りで踊るようにして、一つしかない椅子には花を飾りたいんだよ。そういう暮らしがしたい。

 

でもこうやって思う反面、進歩史観的な考えに「うるせぇーーー!毎日毎日よくあろうとするなー!昨日より今日を、今日より明日をより良く暮らそうとするな!生産的であろうとするな!」と思う自分もいて、マジで自己が不定形。他人や自分に過度な努力を求めすぎているのではないかと思って、自分は本当に駄目な人間なんだと泣きたくなることもある。ずっと好きな服を着て、電車に乗って、楽しいところに行って、お酒を飲んで面白おかしくなって、気持ちのいいセックスがしていたい。もうこんなに頭の中がふつふつふつふつ…いい加減にしてくれ、いい加減にしたいんだよ!と腹立たしい。

 

文字を打っていると、右手ばかりが冷える