暮らしに関する所感

正論で人を殴り続けてはいけない。正しいことで、否定のしようがないことで人を殴り続けたらそれはたしなめではなく制裁になる。暴力になる。

 

出来ない奴に合わせると、出来るやつが割を食う。助け合うこと、自分のできないことは相手がやってくれていて、相手のできないことを自分がやっていると思い合うこと。相手に興味を持つこと、自分だけがやっているとか思わないようにすること。

 

他人と住むことは信じられないくらい手間がかかって、家族というコードやシステムから遠ざかって集団生活をすることは、死ぬほどスリリング。

ぜんぜん何も、私の周りの人のことなんて何も知らない人に、全部今までのことうちあけてしまいたい。でもそれは悩みの片棒を担がせることだ。自分で立っていられないなら、こんなこと始めるべきじゃなかったんだ。私はまだ苛烈でいられるし、もっと加速できる。

 

なぜ人を独占したいと思ってしまうんだろう。分かり合っていたと思っていた人から、思いもよらない反応が返ってきたとき、ひどくたじろぐ。裏切りがいままでそんな膿やそんな気配の何もない空間から発生しては消えていく。会話の最大公約数値をみつけようとする努力をみんなが同じようにやろうとはしていないことを初めて知りました。出来ないのではなく、やらない人がいること。考えられないのではなく、考えたくない人や考えない人がいること。それはコミュニケーションとしてどうなの?って思う今の私の感覚は、ここではマイノリティであること。

 

悲しいと思う出来事に何も感じていなそうだったり、そんなことは普通は言わないよなという言葉をぽんぽん発している人間を見て、お伝えし合うことがコミュニケーションなのではないかと思っていた今までの自分の見解がぐらぐらになる。

 

「弱い方が勝手に傷つく。」これは昔フォローしていた人が呟いていて、凄まじく刺さった言葉なんですけど、私は今自分のお家で、自分の所有しているおうちでね?毎日毎日毎日なんじゃそりゃぁ??と思ったり、なんでそんなこと言うんや!と思ったり、誰もこれは気にしないんだなとびっくりしたり、犬猫みたいに扱われて頭に来たり、まぁそんな生活をしているんですが、「相手が子供なんだな」とか、「こいつまだ人間出来てないんだな」とか、「育った環境が違うから分からないし、分かり合おうとも出来ないんだな」とかね、そうやって相手にばかり落ち度を探していて、最低でした。

 

分かり合おうとする最大限の努力、それを自分の免罪符にしない覚悟、疲れたことを言い訳にしないタフさ、そうなんだよ!弱い方が勝手に傷つく。傷ついたやつに他人を扇動することはできないんだよ。

 

まあでもいろいろびっくりだよな。こういうひともシェアハウスに来るんだなと。

「相手の悪いところを指摘することを確かに許すことだけど、許せないなら許してもらえないし、お伝えしなければずっとこのままで終わっちゃう」というのが私の考えなんですけど、「許したくないし、許されたくもない。他者との関係をいい状態で保とうと思わないから(あ、この人できない人なんだな)と思っていることで自分が優位に立ちたい」と思っている他人と、会話なんてできねぇよ。

 

でもできねぇよで終わったら、そんなのは無意味なんだよ。

 

してほしいこと、してほしくないこと、言いたいこと、言われたくないこと、うれしいこと、嫌なこと、逐一逐一全部伝えて、卑下されても愛玩されても勝手に絶望されてもコミュニケーションをとろうと試みること、そういう覚悟を引き受けて暮らします。暮らそうとしている。より良い暮らしを自分で手に入れるんだ。