世界が一点透視図法の中心で最高速度になった話

今日のブログが、不幸をひけらかすものになりませんように。なぜなら私は幸せだから。努めて正確に書けますように。これは懺悔じゃない。反省でもなく感傷でもない。

 

ずいぶんと早く来いと言われて、目に雪が刺さるなあ、私は絶対カイみたいなのにゲルダはいないんだとしくしくしながら向かった。温かくて消毒液とミルクと掃除機の匂いがして、みんなのっぺりとした顔、顔、顔。みんな二人一組。あるいは四人一組。

案内されるまでにずいぶん待たされて、じゃあもっと遅い時間でもよかったじゃねえかって思う。何かの成分ががぽとりぽとりと落ちるのをずっと見てたら、時間と空間が引き伸ばされたみたいに長くて長くて何もかもが円環になりました。立つときにきちんと立てたのに歩き始めたら足がよろけた。それは慣れない服のせいだった。みんなと同じ服を着せられているから、私は番号に終始してしまうんだ。

 

ぱくぱく動くのが心臓だろうと口だろうと耳の穴だろうと私の血管だろうともうなんだってよかった。数字がひたすらつらかった。だれも責任を負いたくないのが目に見えて分かった。年寄りは嫌いだ!お前が大嫌いだ!お前のその不躾で乱暴で自信過剰なところが大嫌いだくたばれ大味野郎!と口に出して言ってやりたくなった。数字になってしまったら、それはもう実感できるものじゃなかった。とてもじゃないが私には直視できなかった。思考するたびにすこぶる頭が痛くなる。私は救いようのない水差しみたいな顔をしてた。

 

ガチャガチャカチカチ金属のトレーの上で器具がぶつかって鳴る音がひどく怖くてぶるぶる奥歯が小刻みに震えた。こんなの演技以外でしたことない、私はやっとここまで来て道化じゃなく、きちんと悲しいことを悲しいって言えるようなまっとうな権利を得たんだ!って無理やり思いながら、あーあばっかみてくそくそくそきらいだお前なんか大っ嫌いだあっちいけ!って追い払ったりしてた。

絶対に眠くなるからねと、手を握りながら言った人の顔が、メガネを外したせいで全然見えない。なんで私メガネをしてこなかったのか分かりません。手を握ると握り返されるのが恐ろしくて嬉しかった。手に力がこれっぽっちも入らない

 

そこからは早かった。最初に視覚がどこかに行ってしまった。ゆっくりゆっくりめくらになった感じ。光だけは最後まで瞼の中にうようよしていて、何の形か分からないんだけど、私はそれが「絶対に何かの形である」ということを知ってる。人の気配が次に分からなくなる。どこに誰がいたとかそんなことが本当に1刹那で脳みその中から吹っ飛ぶ。嗅覚もだいたい同じ。なんの匂いもしなくなる。泣いていたのに頬が冷たく感じなくなる。最後まで残るのは聴覚で、いつまでも何かの音がしていた。

 

オレンジ色と、黄色と白と黄緑色の新幹線みたいな光が、一点透視図みたいに並んでいるんだけどそれが妙に右上にばかり集まっていて、左下は何色だったか覚えてない。その光が集約している一点に急速に向っていくんだけど、到着した瞬間に別のベクトルが現れて、奥に向って急速に進んでいた感覚から、今度はそのまま右横に引っ張られていく感じ。新幹線の形の光は、今度は立方体になる。光の三原色が何かにぶつかるたび二重、三重に見えて、どこに視点を定めていいか全くわからなくなり、混乱する。右に引っ張られて、今度は後頭部のほう、眼球のほうに光が吸い込まれてくる。ゴーゴー音がしている感じ。その大混乱が終わると、また光の形が安定してきて、何かの形に落ち着く。私が「絶対に何かの形である」と知っている何かになる。

 

そうすると何となく誰かの声が聞こえてきて、でもそれは誰に言っているのか、どこから聞こえてくるのか、何を言っているのか全く分からなくて、でも端々からだんだん日本語だと分かる。目を開けていいの?起きていいの?もういいの?ってずっと思いながら、体は全然動かない。「声を出さないでくださいね~」と言われたような気がする。右の視界に人影が写る。

どこかに行こうとするから必死で声を出そうとする。いや、必死じゃない、行かないでほしくて何となく、ほら風邪をひいたときみたいなあんな感じの甘ったれでさ、人を呼び留めようとする。手を伸ばすけど、ホントに伸ばしていたかはわからない。ゆめをみてた、ゆめゆめゆめ。とその人にむかって言いながら、母音しか発音できていないような気がしてぞっとする。嫌に焦る。いつの間にか天井がピンク色になっている。カーテンレールが二重に見える。人の頭が二重になっている。どこを見ていいのかわからない。何もかも夢?夢だったのか?という錯覚を5回くらいする。ベッドから降りたときは全部覚えていたはずなのに、記憶が吹っ飛ばされると、前後もごっそり抜け落ちるんだなって思った。

 

ゆめをみてた、ゆめゆめゆめ。もうおわり?なにこれ?ゆめみてた、なに?おわり?おわった?おわり?いたい、いたい、やだやだやだ。ゆめ?もうおわり?

 

口がぱさぱさなことに気付く。口が半分開いていた。動かそうにも動かないし、舌もどこにあるかわからない。だんだん見たいところに視点が行く。首が動く。大きい電気の下にあった、何か非常灯みたいな小さなでっぱりが、ずーっと大きい電気にゆっくり近づいてる気がしてたけど、それもなくなる。電気と非常灯は近づいていない。夢じゃなくて何もかも終わってたってことは、血圧計を付けられていることで知る。

 

これが私の2月29日です。あと4年は訪れないことを、隣の人の会話の中で思い出しました。肉体がなくなり極限まで緊張して研ぎ澄まされた精神が実感できるのは、光と何かが(自分が)動いているときの速度だけです。肉体と精神がまったくもって完全に乖離する経験をした。私は今日一回死んだんじゃないかしらん。ただあの光と急速な動きだけが目を閉じてもやたら思い出されます。夢じゃないと分かったあの時の安堵が、家の布団の匂いのせいで思い出されます。うわごとを言う私を見下ろした人間の顔が見えない視力で本当に良かった。